<本郷からほど近い小石川界隈にある和菓子屋>
本郷とその周辺には水戸徳川家の藩邸が2つあった。そのひとつは、小石川の上屋敷である。もうひとつは中屋敷で、東大農学部の構内だった。小石川は、むかし小石の多い細流がながれていたからこの地名があるという。その邸内には名園「後楽園」があって、江戸時代における典型的な大名の回遊式庭園としてのこっている。江戸期も、ときに市民に開放した。後楽とは、「士は当(まさ)に天下の憂に先んじて憂い、天下の楽に後れて楽しむべし」からとった。先憂後楽ということばがそのものが、その後の水戸藩の藩風になった。
光圀は、俗に水戸黄門といわれる。黄門とは、日本の中納言のことを、しゃれて唐の官名で呼ぶ場合につかわれる。彼の人気が高かったために、黄門は光圀の別称のようになった。水戸は将軍家を含めた御三家の後見のようなもので、つまりは将軍家や尾張・紀州の御三家が我儘におよぶときは、意見申し上げる役目の家である、と光圀は言ったらしい。このことは、光圀の謙虚さと、自己を客観視する能力と、ただならぬ正義感がよくあらわれている、と司馬遼太郎は書いている。「副将軍」などというのは世間がつけたあだ名で、官制ではない。世間は、こんなふうに光圀のことをいうことによって、そお徳望を称えたかったのであろう。
黄門といえば、漫遊記になる。が、光圀は漫遊などしなかった。庶民にすれば、家康の孫である光圀のように正義と物事を見抜く力をもち、そのうえ、将軍に意見を言える存在に諸国を歩かせて無道をただせたかったにちがいなく、江戸末期には漫遊談ができていたらしい。質朴さと、自分の主題への透明な執着を持つという点において、見習いたい人物のひとりである。
(引用:「街道をゆく(37)本郷界隈」司馬遼太郎著、朝日新聞社朝日文芸文庫)
投稿者 yoshiro : 2008年10月05日 21:59